いよいよ、この本の最終回です。
清水哲郎著『最期まで自分らしく生きるために』(NHK出版)
「いろいろなことができなくなっていくこと――最期まで自分らしく」。
P155から最後まで。
開催日時は、4月27日(日)14時~16時。
■Facebook 松川 絵里さんの近況より
今日は、川崎医療福祉大学へ。
ケアを考える会に参加してきました。
みなさんと丁寧に読んできた清水哲郎さんの『最期まで自分らしく生きるために』を読了。
今日は特に「《信じる》とは、意志的な理解であり、理解的な意志である。」というテーゼについて考えました。
様々な立場からケアにたずさわるみなさんが、具体的な現場での経験を織り交ぜてくださるので、回を重ねるごとに内容も濃く。
話はなかなか尽きません。
みなさん多忙毎回スケジュール調整が大変ですが、次回も楽しみです。
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■話し合いの感想……菊井和子さん
4月27日の清水テキストの最終回は結構重いテーマでしたね。その後大賀さんよりご意見をいただきました。
遅れながら、菊井からも少し意見を述べさせください。
大賀さんコメントより
P.162 「≪信じる≫は、意志的な理解であり、理解的な意思。
意志的な理解:クリスチャンとして生きることを決意し、聖書から得られたみ言葉を味わうことから得られる理解
理解的な意思:神からの召しが与えられたと理解する出来事(事件)による行動の現れとしての意思
例:ナイチンゲールの召し
菊井は、《信じる》を特定の宗教と切り離して考えています。《信じる》は、理解する(理性による道理の了解)や意思(理性的思慮、選択を決心して実行する)ことではなく、素朴に、素直に、単純に、例えば幼子が母親を信じるように、何の疑いもなくまかせきる?気持ちと考えていました。それに対し小林さんからは、鈴木大拙「日本的霊性」における日本人の素朴な(プリミティブな)信仰のあり方と通じるものではないか、というご意見をいただきました。
清水先生は、そして大賀さんも、クリスチャンと伺っています(多分、小林さんも?)。そこで、牧師の友人に意見をきいてみました。彼女の意見も清水先生や大賀さんと同じで、「キリスト者は何度も何度も聖書を読み返して理解を深め、意味を確認し、信仰を深めていく」というような説明を受けました。そして、菊井の《信じる》は、小林さんと同じく、鈴木大拙「日本的霊性」にあるようなものと言われました。
こうなったら、「日本的霊性」を読み直すしかありません。本箱の奥から取り出し読み始めましたが、なかなか読み進めません。緒言と解説と第4章の「浅原才市」を少し読んで挫折。その代わりに加賀乙彦「科学と宗教と死」を2日で読破。今は本題から離れ、岩波明「生の暴発、死の誘惑『生きがい』を見失うとき」を読んでいます。私は高齢者で「労働の義務」から解放されたおかげで晴耕雨読の日々です(雨が降らないと読まない。残念、岡山は晴れの国です)。
「閑話休題」
以下は菊井の独断と偏見によるつぶやきです。
清水先生たちのおっしゃるように、「スピリチュアルなあり方においての《信じる》」は、意志的な理解であり、理解的な意思」、という言葉の裏には、そうしなければ信仰が揺れる、迷いが生じるという、不確実性が潜んでいるのではないでしょうか。それでも《信じる》とは、迷いながら、揺れながら、意思的理解、理解的意思で深めていくものだという意味ででしょうか。
あるいは、ある時神秘体験(例ナイチンゲールのお召しcalling)を経験してゆるぎない信仰に入るのでしょうか。
今の私にはわかりません。これは宿題にしておきます。またこのようなテーマで話し合うことができればいいですね。
駄文、長文となりました。お赦しくださいませ。